ブタとスッパンプウ 豊後ことばのアジとコク(1995.2)
本書「方言と私」より
呉服屋の二男坊として呉服、太物の中で育ちました。店先には卸屋さんが京都、大阪方面からよく来ていました。父とその人達のやりとりを横で聞いて育ちましたので上方弁のアクセントは自然とインプットされて来ました。
十六才で海軍の航空隊に身を置いて九州、中国地方の出身者と一年間程寝食を共にし九州各県の言葉の特長を大体身につけました。そして、其後台湾、東北地方の航空隊を廻りましたので東北弁の昧も充分堪能出来ました。
軍籍に身を置いた二年間のみ大分を離れたのですが、復員して帰って来て聞いた大分弁は「ネチャッとして品の無い言葉だな」と思った事は確かです。
六年程前、「南大分マイタウン」より方言について何か書いて欲しいと頼まれたが、毎日を大分弁で話し合っているわけではないし---と考えた末、舞台を五十数年前の小学校時代にすればと思いつきました。
幸い小学校の同級生とは今でも親交が深いのでこの人達の思い出や現在の会話の中から適当なものを引き出して書きました。そして六年間「南大分マイタウン」に掲載したものをこの一冊にまとめて見ました。
終りに豊後靴りの詩を書き続けている福岡市在住の門田照子さんの「流出」(一九八三年八月九州野火≠謔閨jを紹介します。門田さんは結婚後、数年間同居した竹田出身の姑さんの使っていた言葉より豊後弁を身につけそうです。
(一九九五年一月)